主のひとり言
せっかくの「ひとり言」コーナーなので、思ってることをいろいろと、そのまま書きたいと思います。ここの内容が何かのお役に立てるかは分かりませんが、時間があれば読んでいってください。
ずっと幸せ
毎年、幸福度ランキングなるものが発表されますよね。日本は、幸福度ランキング2019で58位となり、G7の中では最下位でした。
そもそも幸せって何なのでしょうか。仮に今幸せだとして、その幸せはずっと続くのでしょうか?ほとんどの場合で、新たな幸せの価値観が芽生えてきて、またそれに向けて「幸せになりたい!」と願いながら求め続けると思います。
そして、求めた結果幸せになれなかった場合に、「誰が悪い」とか「社会が悪い」とか、何かのせいにしたがります。また、そういうことを口にしていると、不思議と周りに同じような人が集まってくるものです。不平不満でさえ共感されれば、正当化されたみたいで気持ちが楽ですからね。
でも、それが本当に幸せになるためのプロセスなのでしょうか?それってまるで蓮根畑の泥の中で、もがき苦しんでいるようなものではないでしょうか。
こう考えてみてはどうでしょう。幸せは「なる」ものではなく「見つける」ものだと。なろうなろうとして血眼になるよりは、そっと目を閉じて見つけてみれば、きっとたくさんの幸せが見つかるはずです。
「食べられる幸せ」「飲める幸せ」
「歩ける幸せ」「見える幸せ」「聞こえる幸せ」
「触れる幸せ」「話せる幸せ」
「家族がいる幸せ」「仲間がいる幸せ」
「先祖に守られてる幸せ」「地球に生まれた幸せ」・・・。
そう指折り数えていくと、今まで「幸せになりたい」「思い通りの人生にしたい」と思っていたことが、傲慢強欲の類いなんじゃないかって気付かされたりします。そして、そうなると不思議なことに、全身の無駄な力がすべて抜けて、今までもがいていた蓮根畑の泥から「すぅ~」っと抜け出し、「蓮の華」に座っているずっと幸せな自分がイメージ出来たりします。
そして、その姿はそう、「観音さま」そのものですよね。
トイレの神様
前に「トイレの神様」なんてタイトルの歌がヒットしましたが、本当にそんな神様がいるんでしょうか?前にこんな話しを聞いたことがあります。
住宅・会社・お店など人が使うその前に、7人の神様が「よーい、ドン」で一斉に走ってきて、そこに住みつくらしいです。
1番先に着いた神様は・・・「客間」
2番目に着いた神様は・・・「リビング」
3番目に着いた神様は・・・「寝室」
というような感じで、早く着いた神様から居心地のいい場所を陣取ります。そして、7番目の神様がかなり遅れて到着しました。残っている場所は、そうです、もうトイレしかないんです。そこでその神様は、仕方なくトイレを自分の居場所とするんです。でも、どうして7番目の神様だけが、極端に足が遅かったのでしょう???
それは、ほかの神様よりたくさんの宝物を持っているからなのです。重すぎて早く走れなかっただけなのです。そして、その神様が住むトイレをいつもキレイにしてあげていると、ご褒美に宝物を少しずつもらえるみたいです。お金持ちの家や優良企業、盛っているお店でトイレが汚いところってないですよね!
そして皆さんがもし、スーパーやコンビニで自分が入ったトイレから出るときに、必ず元の状態よりわずかでもキレイにして出ることを心掛けたとしたらこれ凄いんです!だってどこのトイレにも神様がいるんですよ!日本中のトイレに住む沢山の神様が喜べば、日本全体が明るくハッピーになれるんじゃないでしょうか。
ちなみに著名人の方でもトイレ掃除だけは毎日自分でするという方がたくさんおられます。
北野武さん・和田アキ子さん・郷ひろみさん・故 志村けんさん
故 星野仙一さん(プロ野球選手・監督)
故 本田宗一郎さん(ホンダ創業者)
故 松下幸之助さん(パナソニック創業者)などなど。
ビッグ過ぎる顔ぶれですね。
あまりに大きな小さい「っ」
小さい頃からよく耳にした言葉のひとつに、「夢を諦めるな」ってのがあります。特にめずらしい文句でもないですし、これを聞いて特に感動する人もいないと思います。要するにみんなが「しってる」言葉ですよね。ところがですよ、重要だって「しってる」のにもかかわらず、それを「してる」人はわずかしかいません。そのわずかしかいない「してる」人が、あらゆるジャンルで大活躍と成功をしているのです。
もう、お気付きですよね。「してる」と「しってる」は、小さな「っ」があるかないかだけの違いなんです。しかし、その小さな「っ」はあまりにも大きく、180度真逆の人生を歩んでしまうんです。「しってる」けど「してない」ことって、実はいくらでもあったりします。「人を傷つけてはいけない」とか「利己主義ではいけない」とか、みんな「しってる」けど、ちゃんと「してる」って自信を持って言える人って、少ないのではないでしょうか。
何かうまくいかないことがあった時、小さな「っ」が邪魔していないか意識してみてください。きっと、頭で「しってる」けど行動で「してない」ことに気が付くはずです。
教育とは
教育をググってみると、「他人に対して意図的な働きかけを行うことにより、その人間を望ましい方向へ変化させること」、なんていう定義がされていました。では、その望ましい方向へと変化させる方法とは何なんでしょう。単純にやり方を言って聞かせるだけですか?そもそも望ましい方向って誰にとってですか?実はこのふたつに、教育のすべてが集約されているように思えてならないのです。
教育は必ず双方向で成立します。当たり前のようでこれが一番難しいです。まず、望ましい方向っていうのが、教える側の都合であることが多いです。この場合、そもそも受け取る側の気持ちを無視していますので、ただの一方通行になります。ザルに水を注ぎ込んでいるイメージですね。
では、どうやって双方向の教育をすればいいのか。理屈から言うと、教える側が相手にとって本当に望ましい方向なのかをよく理解し、教えられる側は自分にとって本当に望ましい方向であるということをよく理解することです。しかし、理屈はあくまで理屈であって、そう上手くはいきません。そこには理屈を超越した何かが更に必要だからです。
それは、「尊敬」です。この人のようになりたいとか、この人凄いなって気持ちがないと、教えってスッと頭の中に入ってこないものです。誰もが幼い時からいろんな教育を受けながら育ちます。大人になってからもそれは同じですが、教えられたことでスッと頭に入ってきた感覚を思い出してください。それは尊敬できる先生だったり、尊敬できる上司だったのではないでしょうか。そしてもちろん、一番身近なところでは尊敬できる親ということになります。
結局のところ教育って、面と向かって知識を放つのではなく、その人の知識と人間性を求めて、背中を追いかけられることのような気がします。「この人のようになりたい!」って思ってもらった時点で、教育者としての勤めは終わったと言っても過言ではありません。そのあと教えることはすでに「オマケ」であって、教えなくても勝手に学ぼうとしてくれます。「そんなに頑張るな!」って言っても頑張っちゃうものなのです。だってあなたのようになりたいんですから!
最後に、すごく好きな歌の歌詞を一部紹介しますね。福山雅治さんの「家族になろうよ」です。
♪いつか父さんみたいに大きな背中で~♪
♪いつか母さんみたいに静かな優しさで~♪
これってそうなるように教えたことではないですよね。父さんと母さんの、そんな姿を見て感じて自分もそうなりたい!と思ったことですよね。教育ってつい教える側が偉くなったように錯覚しがちですが、言葉や文字で教えることはあまりに簡単です。「感じて」もらって自分のようになりたいと思われるのは恐ろしく難しいです。教育とは教える人そのものなのですから。
2つのロジック
突然ですが、「すべての生き物に平等に与えられてるもの」って考えたことありますか?
「空気」・・・これは標高が上がれば薄くなるから違いますね。
「太陽」・・・これも国や季節によって日照時間は異なります。
「生命」・・・いま生きていても、いつ死ぬかは不平等です。
「方角(東西南北)」・・・北極に居れば北しかないです。
では、何が平等に与えられてるのでしょうか。それは、「今という時間」です。今この一瞬の時間だけは、世界中どの生き物にも平等に与えられています。逆を言うと、「今という時間」以外に何一つ平等なものなどない!ってことにもなります。
だから、一秒一秒大切に精一杯生きていくんです。不平等なものに文句を言って、愚痴を吐いている時間なんてないんです。
それと、もうひとつ平等に与えられた宿命があります。それは、「生き物はいつか必ず死ぬ」ということです。実は人間含めすべての生き物が、「今を生きている」と「いつか必ず死ぬ」の、この2つの単純なロジックに集約されてしまうのです。しかし、生き物の中で唯一人間だけが、「今という時間」を意識しながら生きる事ができるんです。そして、その意識できる能力を、生かすも殺すも自分次第ということです。
世の中生きていると、複雑なことがたくさんあります。人間関係のもつれや仕事のトラブルなど、頭の中がパニック状態になって、何もかもが嫌になったりします。そんな時は先程の、2つの単純なロジックを思い出してください。
「今を生きている」→「いつか必ず死ぬ」
どんなに複雑に考えても、どんなに悩み苦しんでも、生き物は基本的にこれしかないのです。だから、いつか死ぬ時に後悔のないように、今という時間をちゃんと生きないといけないのです。
お墓が自分で造れる幸せ
世界四大文明といえば、「エジプト文明」「メソポタミア文明」「インダス文明」「黄河文明」ですが、文明と聞いて何をイメージしますか?ピラミッドや万里の長城など、壮大なスケールを思い浮かべるんじゃないでしょうか。
現在では、世界遺産として毎年多くの人が訪れ、その壮大なスケールに「すごい!」と口を揃えて感動します。確かに巨大な建造物にだけに目をやれば、すごいことは間違いないです。
でもその一方で、私が一番すごいと感じるところは、想像を絶する「格差」なのです。生まれた時から一生を、奴隷のように生きる運命だった者と、生まれた時から将来の権力を保証され、王位を継承する運命だった者と、この両者に対して同じ人間なんていう概念はまったく存在しません。
たとえば、エジプトで一番大きいピラミッドは、1個当たり2.5tの石を200万個も積み上げて造ってあります。普通に考えてこれを人力でやるとなると、数百年はかかったと思われます。そして、奴隷のように一生その作業をやった者の、子孫もずっと同じような人生を送ったと言われています。
そう考えると、この時代にこの日本で暮らせていることが、どんなに幸せかなことかを思い知らされます。格差社会などが問題視されていますが、まったく格差のうちに入りません。むしろピラミッドを造っていた時代からみたら、全員が王様と言っても過言ではありません。
だって、自分で自由にお墓を造ることができるじゃないですか。これって、時代が時代なら当たり前ではなく凄いことなんです。お墓は人して認められて生きた証なのですから。
天国と地獄
死後の世界って本当にあるのでしょうか。その真偽は分かりませんが、もしあるとしたら、生前と死後の関係ってこんな感じだと思っています。
「魂だけが存在する死後の世界で快適に過ごせるように、生身の体を借りている今の世界で修行を積む。」
死んでしまい魂だけになってしまうと、そこからは先は何も成長する事ができません。魂が成長できるのは、他人と係わりを持っていた生身の人間であった期間だけなのです。しかしそれは、「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、生きていく中で魂を成長させることはとても難しいのです。いろんな人と係わっていく中で、誰かに必要とされたり感謝されるようなことがあれば、魂は限りなく成長します。また、その逆に「自分さえよければいい」という傲慢強欲さや、他人に対する「妬み」「嫉み」「恨み」といった感情は、魂を激しく劣化させます。
やがて誰もが寿命を迎え、修行時代の生身の体から魂だけが切り離され、旅立っていきます。魂は、人間として生存した星(地球)から遠く離れれば離れるほど、より「無」に近い状態で安らかに眠ることが出来きますが、魂だけの力では天高く昇っていくことは出来ません。ではどうすればいいのでしょうか?
残された人々の「祈り」です!!「安らかに眠ってください」って祈りが多ければ多いほど、安らかに眠れる遠い彼方へと魂は昇っていけるのです。まさにこれが生前の修行の成果ということです。よく「徳を積む」なんていう表現をしますが、その徳を積んだ数だけ魂は輝きますし、残された人の祈りも大きくなります。逆に、傲慢強欲で自分勝手な生き方をした魂に、心から祈りを捧げてくれる人なんていません。そうなると、死んだ地に這いつくばって彷徨うしかないのです。
このように考えていくと、人間の価値って生前に評価されるものじゃなく、魂だけになった時に、本当の意味で評価されるものじゃないのかなぁと思ってきます。だからこそ真っ当に、人に感謝をされるような生き方を目指し、間違っても人から恨まれるような生き方だけはしてはいけません。
生きている時間よりも、死んだ後の時間のほうが長いです。死後の世界が本当にあるとするならば、「永久に彷徨い苦しみ続ける」ことは、すなわち「地獄」で、「永遠に安らかに眠る」ことは「天国」なのです。そして、それを決定付けるのは修行期間中の今なのだと思うと、少し背筋がピッとしませんか。
クリスタルマインド
「あの人は完璧だ!」なんてことを言いますが、完璧な人っていったいどんな人を指すのでしょう。男性で言ったら「仕事が出来る」「お金持ち」「カッコイイ」「スポーツ万能」。女性で言ったら「美人」「スタイル抜群」「センスがいい」「キャリアウーマン」。なんて感じなのでしょうかね、一般的には。
ここで少し見方を変えて、完璧って意味だけを考えてみましょう。実は結構多くの方が意味を間違えて覚えているんですが、「完全な壁」と思っている人いませんか?!無理もないです、字がよく似ているのです。
「璧」「壁」
似ていますが下の字が違います。完璧の「ぺき」って「土」じゃなくて「玉」なんです。要するに「完全な壁」じゃなくて、「完全な玉」なのです。実はそれって水晶玉のことを指しているのですが、水晶は一般的には無数の傷や曇りがあるのです。そのくらい傷一つ無く、一点の曇りも無い水晶玉は珍しく稀少なのです。
だ・か・ら、「完璧」なのです!
ここでさっきの話しに戻します。「仕事が出来る」「お金持ち」「カッコイイ」とか、「美人」「スタイル抜群」「センスがいい」とか、確かに稀少は間違いないです。でも、何か違和感を感じるのは私だけでしょうか?
「一点の曇りも無い水晶」のイメージって、「澄んだ純粋な心」のことではないのでしょうか?!そのほうがイメージがしっくりきませんか?!ではもし、「澄んだ純粋な心」の持ち主が「完璧」だとするならば、それはいったい誰のことを指しているのでしょう?
そう!「赤ちゃん」です。間違いなく一点の曇りも無い瞳を持った赤ちゃんです。私から見ると世界中の赤ちゃんはみんな完璧です。ところが成長する過程で、見たくないものを見ることもあるし、やりたくないこともやらなければいけません。いろんな欲に負けてしまうこともあるでしょうし、人を傷つけたり自分が傷ついたりを繰り返します。そうやって完璧だったはずの「一点の曇りも無い水晶」に、傷や曇りを付けながら生きることが人生なのかもしれません。
赤ちゃんは完璧です。大人はそのピュアさに絶対に勝てません。しかし、完璧な赤ちゃんに出来なくて、大人には出来ることもあるのです。それは、意識することです。完璧じゃないからこそ謙虚に意識することが大切なのです。「今言ったことは水晶を汚してないか」「今やったことは水晶を傷つけてないか」そう常に意識する癖をつけることで、少しでも完璧に近づけるのではないでしょうか。
自分のルーツ
人には必ず両親がいて、そのまた両親というようにずっと続いていきます。20代遡ると、あなたのルーツであるご先祖様は100万人を超えます。27代遡ると、なんと1億3000万人を超える数になるのです!そして、当たり前なのですが、その内1人でも欠けると今の貴方は存在していません。たとえ欠けなかったとしても、タイミングが違うだけで、今の貴方は存在していません。この貴方が貴方として生まれてくる確率は、もう奇跡としか表すことはできないのです。
さてここで、自分のルーツについてどのくらい知ってる方がいらっしゃるでしょうか?興味を持って調べたことがある、という方はどのくらいいらっしゃるでしょうか?貴方が貴方として今存在していることは、当たり前ではありません。感謝の気持ちを持ちながら、どんなに時間がかかってもいいので専門家に頼まずに、ご自身の手で調べていただきたいです。
役所における謄本の保存期間が、平成22年の法改正で80年から150年に延長されました。しかし、私は実際自分でルーツを調べていったのですが、役所に保管されている戸籍謄本や除籍謄本は、100年前後までがほとんどでした。ですから本気になって自分のルーツを辿ったとしても、4代前~5代前までが限界です。ご先祖様を調べるって言う割には、確かに人数は少なすぎますが、それでも十分感動しましたよ。「鈴木さんもいるんだ。小澤さんも村松さんも・・・」みたいにワクワクしました。そして、同じ姓を持つ知り合いの人たちが、急に親戚みたいに思えてきて親しみを持ったりします。これって絶対に良いことですよね。
ここで最初に戻って、ご先祖様の数の話しなのですが、20代遡ると、あなたのルーツであるご先祖様は100万人を超えますとお伝えしました。しかし、個人個人別のご先祖様がいたとするならば、昔のほうが人口が多いことになってしまいます。自分から見たら逆ピラミッド型なのですが、ご先祖様から見たら普通のピラミッド型になるのです。要遡れば遡るほど、ほとんどの人のご先祖様は一緒になっていくのです。
あなたが普段苦手だと思っている人も、会社で大嫌いな上司なんかも、必ず何処かで繋がっているのです。そう考えると、いろいろ許せるような大きな気持ちになれませんか。
私が思うに「他人」って省略した言葉が、どこか冷たく希薄な感じがして好きではないんです。ちゃんと省略せずに正しく言うべきですよね!
「何処で繋がっているか分からないだけで、必ず繋がっている人」
これが正解です。(笑)
当たり前
◆当たり前な事
①「蛇口をひねると水が出る」
②「スイッチを押したら電気がつく」
③「食べるご飯は温かい」
④「布団(ベッド)で寝ている」
⑤「毎日お風呂に入る」
⑥「家族がいる」
⑦「生活する場所がある」
◆非日常的な事
①「友人と高級ディナーにいった」
②「誕生日に高いプレゼントをもらった」
③「宝くじで100万円が当たった」
④「欲しかった新車に買い換えた」
⑤「好きなアーティストのコンサートに行った」
⑥「大型のテレビに買い替えた」
⑦「海外旅行に行った」
当たり前と思われていそうな項目と、非日常的な項目を挙げてみました。年代によっては当たり前の項目は、生まれた時からずっとそうだ!という方もおられると思います。人は、当たり前と思うことに対して感謝することは難しく、非日常的なことには感謝したり感動できるものです。蛇口をひねって水を出してる自分と、宝くじで100万円当たった自分を想像してもらえれば、その答えは明白です。
今度は、それが無くなった場合に生活に困る項目は?というのを考えてみましょう。水が出ない、電気がつかない、寝る場所がないとなったら、本当に困りますよね。一方、高いプレゼントを貰えなかった、大型テレビに買い替えられなかったとしても、生活に困ることはありません。
要するに、生活に本当に必要なものを当たり前と感じ、本当に必要のないものを求めてしまっているということです。これは言われなくても誰もが頭では理解していることです。しかし、理解はしていても、実際に蛇口をひねる度にありがたいなぁと思うことは難しいのです。
当たり前のことは当たり前じゃないと理解していれば、いちいち感謝しなくてもいいじゃないか、と思われるかもしれませんが、それがそうでもないのです。そう感じた出来事がありました。3.11東日本大震災です。避難所生活を送る方々への取材を見ていると、「アレが無い、コレが無い」と文句ばかりを言う人がいれば、ひたすら「有難いです、有難いです」と繰り返す人もいました。これを見たときに「どうして同じ避難所に居るのに、言ってることが違うのだろう?」と考えてみました。それは、普段から当たり前と思わずに感謝していると、「当たり前じゃないんだから無いことだってある」と、無意識に思えてくるのではないでしょうか。
もちろん、どちらが良くてどちらが悪いとかではありません。自分が同じような境遇になった時、どうありたいかです。せっかくの機会ですので、当たり前と感じてしまっているものを挙げながら、それが無くなってしまったことも想像してみてはいかがでしょうか。そしてそれは物だけではありません。あなたの周りに居る人も、居て当たり前ではないのです。
人の為
一口に「人の為」といってもいろんなものがあると思います。例えば、「募金・義援金」や「ボランティア活動」もそうでしょうし、「子育て」「教育」「プレゼント」なんかもそうかもしれません。いきなり核心を突きますが、
「それって本当に人の為ですか?」
例えば、あなたが「恵まれない子供の為の募金」をしに行ったとします。募金箱に500円玉を入れたら、そこのスタッフが、「みなさんお札を入れるんですけどね!」と言ったとしたらどうでしょう。イラっとしますよね!募金したことを後悔しますよね!でもよく考えてみてください。その募金した500円は、恵まれない子供の為に使われるのですよ!純粋に人の為という思いだったら、特に問題はないはずです。では、何がイラっとした原因なのか。それは、あなたが募金したことに対し、スタッフが感謝しなかったからです。
ということはですね、「恵まれない子供の為の募金」が「自分が感謝される、恵まれない子供の為の募金」に変わってしまっているのです。「人の為」のはずなのに、なぜが「自分」が登場しちゃってますよね。だから昔の人は、「人」の「為」と書いて「偽(いつわり)」という漢字にしたのではないでしょうか。そして、この後に決まって登場する文言が「せっかく」です。「せっかく○○してあげたのに!」と、相手を責めるようになってしまうのです。これでは人の為どころか誰の為にもなりません。
ではどうすればいいのか?って話しなのですが、「自分の為」って意識するだけでいいのではないでしょうか。「自分の為なんだけれど、結果として人の為になってくれればいい!」と思いながら行動するのです。そう考えるようになると、「せっかく○○してあげたのに!」と人を責めることがなくなります。
今回の内容は、意味を取り違えて解釈してしまうと、「人の為って言っている奴らは偽善者だ!」になりかねませんが、それは全く違います。人の為にアクションを起こせるって素晴らしい事ですし、間違いなく優しく広い心の持ち主です。しかし、それは同時に「人の為になる結果」を「自分が希望」する行動であって、「自分」がそこに登場してしまっていることも認めなくてはいけません。そうすることによって、相手に押し付けることなく、「為」という言葉が暴走することもなくなるのではないでしょうか。
悟り~覚悟
悟りのイメージとはどのようなものでしょうか。「すべてを悟って完成された状態」ですとか、「人間の目指す最終形」のようなイメージを持たれている方が多いのではないでしょうか。要するに思想の究極な部分であって、悟ってしまえばすべて終わり的な感じがします。しかし、私の悟りに対するイメージはその逆なんです。終わりどころか、悟ってからが人生と向き合う始まりだと思っているのです。
人生とは、常に水の中にあるようなものだと考えます。生まれた時は、無色透明な水の中に生まれてきます。やがて、少しずつ成長し、他人との関わりを持つようになると、イジメだって経験するでしょう。思春期になれば失恋だって経験します。受験戦争で負けることだってあります。社会に出れば信じられない裏切りにあうかもしれません。仕事で取り返しのつかない失敗だってします。突然のリストラだって決して珍しいことではありません。人間の想像を超えた自然災害だって必ずやってきます。そして、大切な人の死だって。
私は、このような悲しく苦しいことを、「泥の粉」と呼んでいます。そしてその泥の粉は、まるで雪でも降るかのように、人生の水へと容赦なく降り注ぎます。やがて、人生の水は濁りだし、段々と前が見えなくなります。そして周りが見えなくなると余計に焦り、水中でもがき始めるのです。もがけばもがくほど水が濁ってしまうのに、それでももがいてしまうのです。これは別に特別なことではなく、誰もが何度も経験していることなのです。
そして、本題の悟りはここからです。ではどうすればいいのか?ということですが、「受け入れる」のです!降り注いでくる泥の粉すべてを受け入れるのです!悲しい事も、苦しい事も、馬鹿にされた事も、裏切られた事も、すべてすべて受け入れるのです。それらの泥の粉たちはすべて過去です。降り注いでしまった時点で、どんなにもがこうが、どんなにあがこうが、元に戻っていくことはないのです。だったら黙って受け入れるしかないのです。涙が止まらなかったら泣きながらでも、ジッと受け入れるのです!するとどうでしょう、泥はやがて沈み透明な水が戻ってきます。前が見えてきますよね。前さえ見えれば一歩踏み出す勇気が出るかもしれません。
これが、私が考える悟りです。ただなぜ最初に「悟ってからが始まりだ」と言ったかというと、これは決して楽になる方法ではないからです。楽になるというよりむしろ、「事実と正面で向き合う」という意味では、より辛いことかもしれません。受け入れ難いことを受け入れるって、想像を絶するくらい難しいことです。でも、前さえ見えていれば必ず生きて行けます。どんなに小さくとも最初の一歩がいつか必ず出るはずです。だから、あらゆることを受け入れる覚悟を、常にしておきたいものです。「悟りを覚えておく」と書いて「覚悟」という字なのは、決して偶然ではないはずです。
何を数える?
何かの数を数える時に、指を折っていきますよね。実はこの数えるっていう行為で、豊かな人生を送れるかが変わってくることをご存知でしょうか?
ここで数えていただきたいものがあります。ひとつ目は「これがあったら幸せ」とか「これが出来たら嬉しい」とか「これが欲しい」ってものを指折り数えてみて下さい。次に「今これを幸せに感じている」ことを指折り数えてみて下さい。
どうでしたか?どちらの数が多い少ないではなく、どちらがスムーズに数えることが出来ましたか?最初の質問は人間の「欲」の部分です。次の質問は人間の「感謝」の部分です。実はほとんどの人が、欲を数えることが得意なんです。「アレが欲しい」「コレが欲しい」「アレがしたい」「コレがしたい」など、人間の尽きない欲を数える事ってすごく簡単なんです。しかし、それらはすべて今現在あなたに無いものです。
一方、今これを幸せに感じていることですが、例えば「大切な家族がいる」「信頼できる友人がいる」「今を生きている」などは、これらはすべて今現在あなたに有るものです。
数えやすいのは無いものかもしれませんが、有るものを数えているときのほうが、はるかに心が豊かではなかったでしょうか?!
人は無意識に数を数えてしまう、習性みたいなものがあります。しかし、この習性だってしっかり意識さえすれば、豊かな気持ちで指折り数えることが出来るのです。誰かに「してもらえなかったこと」を数えては、文句ばかり言うのではなく、誰かに「してもらった」ことを数えてみてはどうでしょう。ありがたい気持ちになってきますよね。人の短所ばかりを数えては「あいつはダメだ」と言うよりは、長所を数えてみてはどうでしょう。さっきまでと同じ人のはずなのに、なぜか輝いて見えたりするから不思議です。
そして、もうひとつ不思議なことが起こります。あなたがそういう数える方法を身につけると、同じような数え方をする人があなたの周りに集まるようになります。そして、そこにはきっと笑顔が絶えないでしょうね。
ケーキを上手に分けてみよう!
知り合いの方から、とても美味しそうなケーキを頂きました。あなたはこのケーキを、友人とふたりで食べることにしました。しかしあいにく手元にはナイフがなく、お皿とフォークしかありません。ふたりとも仲良く笑顔で食べられる方法を考えてください。
考える時間は「3分」です。
まず、どちらかひとりが納得のいくまで、ケーキを半分に分けます。そしてもうひとりに、そのうち1つを選んでもらいます。こうすればお互いが納得し、ケンカにはなりません。
「な~んだ。こんな問題すぐに分かったよ。簡単じゃん!」って思った方は、残念ながら△です。いいですか、もう一度問題をよ~く思い出して下さい。「仲良く笑顔で食べられる方法」と書いてありますよね?!最初にひとりが「どっちを取られても損しないように」と目を見開いて分けました。次にもうひとりが「チョットでも多そうで得しそう」な方を、目を見開いて選びましたよね。これって2人とも、完全に損得しか考えていません。損得しか考えていない者同士で、本当に仲良く笑顔で食べられるでしょうか。
これから、本当に仲良く笑顔で食べられる方法を言いますね。
まず、あなたは友人にこう言います。「大体半分になるように、先に食べていいよ」と。それを言われた友人は、「ありがとう」って言ってケーキを食べ出しますが、損得抜きで「先に食べていいよ」と言われたことが嬉しくて、半分まで食べずにあなたへ「ハイっ」って渡します。
あなたは「ありがとう、私の方が多いじゃん」って言いながらケーキを食べ出しますが、損得抜きで多くケーキを残してくれたことが嬉しくて、友人と同じくらい食べたところでフォークが止まります。そして、ふたりでそのケーキを見つめ、「余っちゃったね」と笑うのです。
実はこの発想ってたぶん、日本人にしか出来ないのです。よくみんなで食事にいって、大皿料理の最後が少しだけ残るって経験したことありますよね。あれって、他の国の方には理解できないらしいです。私が、日本人に生まれて本当に良かったなぁって思う瞬間のひとつです。
最後に、私が好きな「あいだみつを」さんの言葉を。
「うばい合えば足らぬ 分け合えばあまる」
水や空気のような人
昔から、男女問わず水や空気のような人は素敵だなぁ、と思っているのですが、この話しをすると決まって「存在感が無く目立たない人が好きなんですか?」って言われてしまいます。そう言われるのもムリはないですよ。だって水も空気も、「無色」「無臭」「無味」の三無ですから。
でも、よ~く考えてみて下さい。空気がゆっくり流れると、優しいそよ風になって癒されませんか。冷たい風が強く吹くと、木枯らしになって身が引き締まりませんか。冬の終わりに激しく吹く風は、春を運んでくる春一番ではないですか。
喉がカラカラに乾いた時に飲む水って、生きてるなぁって実感しませんか。水を温めてお風呂に入ると、1日の疲れを癒してくれませんか。水を沸騰させた水蒸気は、火傷するほど熱くないですか。先がトガった氷って、まるで剣のようではありませんか。
こんな神秘的で魅力的な水や空気が、存在感が無く目立たないなんてことはまったくありません。むしろその逆で、どんな強いカラーを全面に押し出している人よりも、すごく魅力的に感じます。さっき水と空気のことを、「無色」「無臭」「無味」の三無って言いましたけど、実はこれがすごく大事じゃないのかって思ってます。なぜかと言いますと、誤魔化すための飾りが一切ありません。色も匂いも味も。だからこそ神秘的で魅力的なのです。
そして何より、水と空気が無ければ生きてゆけないのです。対外的には、存在感が無く目立たないのが水や空気かもしれませんが、それが無ければ生きてゆけないのです。こんな素敵な存在(人)って、なかなか居ませんよね。
運命
私が考える運命とは、自然の流れだと思っています。例えて言うなら雲です。そして、雲は2つとして同じものがない、自然の流れが生み出す奇跡でもあります。
よく、「運命は変えられる!」なんてことを言いますが、そこでいう運命は雲ではなく道のことです。二股、三股の道があったとして、どの道を通るかは自由なので、それを運命を変えたと表現しているのでしょう。しかし、道は選択できたとしても、空に浮かぶ雲は変えることはできません。ではいったい運命である雲とは何なのでしょうか。
その道を選択した結果が雲なのだと考えます。もっと分かりやすく言えば、過去はすべて運命である雲なのです。やがてその雲は山にかかります。しかしそれは、自分が理想とした景色ではないかもしれません。そこでうろたえます、「こんなはずじゃなかった」と。そして、きれいな景色を見たいと走り出しますが、雲の流れと同じ方向なので景色が変わることはありません。自然の流れに逆らうって、過去を拒絶するのと同じことかもしれません。自分がどう叫ぼうが、どう動こうが、どこへ逃げ込もうが、運命である雲は形を変えることはありません。
だから、運命なのです。
でもひとつだけ、運命を変える方法があるんです。正確に言うと運命は変わらないけど、雲を動かしてキレイな山を見る方法です。
それは、動かないことです。
運命、すなわち過去を全部受け入れて、拒絶することなくジッと山を見つめるのです。そうしていると動かないはずの運命という雲が動き出すんです。そしてそれは、運命という過去が変わったのではなく、それを受け止める自分自身の心が変わったのです。
拒絶したい過去なんて誰しもあります。しかし、その過去という雲をどかしてキレイな山を見る方法は、自分自身が変わる以外あり得ないのです。想像してください。山の景色は絶えず変化します。いつも晴れてる山(人生)なんてありません。それに、いつも晴れてるだけの山(人生)があったとしても、ちっとも面白くないですよね。これからどんな美しい景色を作り出しますか?すべては自分の心次第です。
心にもワクチンを
貴方は、小さな町の貧しい医者だとします。そんな12月のある日、「新型ウィルスが日本上陸」というニュースが飛び込んできました。この新型ウィルスは、感染後3時間以内にワクチンを打たないと、死に至ってしまうという恐ろしいウィルスです。しかし、そのワクチンは1本仕入れるのに10万円もします。貴方はなけなしのお金で、1本だけそのワクチンを仕入れました。
そして3日後。新型ウィルスに感染している子供を連れたお母さんがやって来て、こう言います、「ウチは貧乏で治療費を払うお金はありませんが、どうかウチの子を助けて下さい!」と。貴方はしばらく悩みます。なぜかと言うと、正規の20万円の治療費をもらえれば、今度は2本のワクチンを仕入れることが出来、2人の命が救えるからです。しかし、あなたがノーと言った瞬間に、その子の死が確定するのも事実です。そして、悩みに悩みぬいた末、その子の命を救うことを決断しました。
その直後です。町長と貴方の妻が同時に診察室へ入って来ました。我先に町長はこう言います。「ウチの息子が新型ウィルスに感染した!1000万円払うから息子を助けてくれ!」と。続いて貴方の妻はこう言います。「ウチの子も新型ウィルスに感染してしまったの!すぐにワクチンを打って!」と。
貴方ならどうしますか?
どれが一番正しいですか?
①先に救うと約束をしてしまった以上、無償でも最初の子供を助けて約束を守る!医者として約束した責任を果たす。
②町長の息子を助けたお金で、100本のワクチンを仕入れる!この選択が医者として、結果的に一番多くの命を救える。
③親としてなりふり構わず、自分の子供を救う!医者である前に一人の親なのだから、親としての責任で自分の子供を救う。
④誰も救わない!命に優劣なんてつけることは出来ないのだから、平等に誰も救わない。
⑤このどれでもない!
答えを導き出して下さい。
この例はかなり極端ですが、このような事って人生の中ではよくあることです。「こっちをとれば、あっちがこうなる。」という葛藤は、生きていると必ず経験します。
しかしこれ、答えなんか無いんです。答えが無いからもちろん正解もありません。100人いれば100通りの答えがあっていいんです。それなのに、生真面目だったり打たれ弱い人ほど、この手の問題に苦しんでしまうのです。みんなが納得出来る、無いはずの正解を探し続けてしまうせいで。そして、その一番の原因は周りの評価を気にする事にあります。
例えば、「③親としてなりふり構わず、自分の子供を救った」を選択したとしましょう。先に約束したお母さんからは、「嘘つき」とも「人殺し」とも言われるでしょう。町長からは「自分の子供さえ助かればいいのか!」と罵られるでしょう。小さな町なので、その噂もあっという間に広がって、住めなくなるかもしれません。
でもそれでいいんです!正解が無いのですから。これから先、無いはずの正解を探して苦しむような事があったら、この記事を思い出してください。
正解が何か?ではなく、貴方がどうしたいのか?が大事なのです。
自爆回避
人類は、言葉の発展と共に、他人との意思疎通を劇的に高めてきました。しかし、言葉は時として、凶器みたいな役割をしてしまうのも事実です。言葉の暴力なんていう表現があることが何よりの証拠です。今回は、そんな言葉の破壊力を書きたいと思います。
言葉とは、発した時点で空気中を振動して伝る音です。そして、その音には周波数というものがあり、この周波数が人間の細胞を破壊することがあるのです。ではどんな言葉が細胞を破壊するかというと、「バカヤロー!」とかに代表される、声を荒げて発する罵声なのです。「ありがとう」や「こんにちは」を、荒げた声で言う人はいないですからね。
では、なぜ声を荒げて発する罵声で細胞が破壊されるかというと、共振周波数という言葉をご存じないでしょうか。ワイングラスの近くで、特定の周波数の音を出すとワイングラスが割れる!ってやつです。テレビで何度か見たことがありますが、物質には細かく振動する周波数があり、それと同じ周波数を受けると共鳴して歪み、やがて耐えられなくなって破壊されるそうです。
それと同じ現象が、人の言葉と細胞の間でも起こっているのです。だから人は、相手を攻撃しようとするときに本能で、「バカヤロー!」などの荒げた言葉を使い、相手の細胞を破壊しようとするのです。
そして、大事なのはここからです。「バカヤロー!」って相手に向かって怒鳴って、その周波数を一番近くで聞く人は誰ですか?
そう、自分自身なんです!
相手を攻撃しようと怒鳴った本人が、一番近くでその影響を受けるのです。ワイングラスだって1m離れていれば割れません。近くで共鳴して初めて破壊できるのです。と言うことはですよ、分かりやすく言ってしまうと「自爆行為」ってことになるのです。
このことを知っているだけで、自爆することはなくなりそうですね。そして、自然と優しい言葉が出てきそうな気がします。
初詣
毎年初詣に行かれてる方も多いと思いますが、特に深い意味も考えずに、恒例行事的に済ませてしまっている方も多いのではないでしょうか。せっかくなので今回は、そんな初詣を一緒に勉強できたらと思います。
まずは基本中の基本ですが、参拝する神社は大きく分けると3つになります。
①「氏神様」を祀った、住まいに最も近い神社
②「天照大御神」を祀った、天照皇大神宮の伊勢神宮などの神社
③自分が崇拝する神社
ここで、初詣に最低限行かなくてはいけない神社は、①の氏神様を祀った神社になります。みなさん毎年行かれていますか?地元の神社を通り越して、有名な神社に行ってないですか?
そして、こんな初詣はNGです!「今年の初詣はどこにする?」ってやつです。なぜそれがダメかというと、みなさん初詣に行ったとき願い事ををされますよね。「今年も健康で過ごせますように!」とか。そして、もし願い事が叶ったとして、翌年に違う神社に初詣に行くという事は、何かを忘れていますよね。
「お礼」です・・・「お礼!」
あなたがそこの神社の神様だったらどう思いますか?「こいつ、今年も健康で!とかお願いしておいて、願いが叶ったのにお礼の一言もないわっ」「もうこいつはブラックリストに登録して、ほかの神社の神様にも連絡しておこう」ってなりますよね。
だから、毎年同じ神社へ初詣に行くことが大事なのです。
「神様はそんな細かい事を気にする、器の小さい方じゃない!」と、思う気持ちも分かります。しかし、神様はとても繊細でデリケートで綺麗好きです。そして何より礼儀を重んじます。
例えば拝殿へ向かう参道がありますよね。鳥居がある道のことです。ここのセンターは総選挙をしなくても神様のモノです。絶対に真ん中を歩いてはいけません。鳥居をくぐる前に一礼することも忘れてはいけません。手を叩く前には、水で手を洗い清めることも大切です。お願い事をする前に、まずは去年のお礼を言いましょう。神様なんだから自分の事を分かってる!などと勝手に思わず、ちゃんと自分の名前も告げましょう。このように参拝には、いくつも守らなければいけない礼儀があります。
せっかく素晴らしい、「神の國、日本」に住んでいるのですから、新年の初詣はキッチリいきたいですよね。
永遠に出来ないコンプリート
何かを収集してコンプリートしようとした経験はお持ちですか?無かったものがひとつずつ揃っていくのって嬉しいものです。人って元々、有るものだけで満足できない生き物らしいです。これを、人生に当てはめて考えてみるとどうなるでしょうか。
例えば、どうしても欲しかったバッグを手に入れたとします。しかし、手にした瞬間をピークに、気持ちは少しずつ別の物へと移り変わるというのが常です。半年も経たないうちに誰かが持っているバッグに目がいったり、雑誌で紹介されている最新バッグに夢中になる、なんていう事はよく聞く話しです。
今の例えは物でしたので、無尽蔵のお金さえあればいつでもコンプリートできます。同じ形で色違いの、黒と白のバッグを同時に持つことだって可能です。
しかし、これが環境であったり、人だった場合はどうでしょう。例えば華やかな世界で活躍する芸能人が、「普通の生活がしたい」と言って引退したとします。これはきっと、事務所に管理される不自由な生活から、自分の意志で決められる自由な生活を希望したことだと思います。しかし、この自由と不自由という相反する2つの環境は、黒と白のバッグを同時に持つような訳にはいきません。なぜなら、別々の環境は同時進行が不可能だからです。
同様に人の場合もそうです。例えば、基本的には優しい人が好きな場合でも、真逆な人に惹かれてしまうこともあります。しかし、3人で同じ時間を過ごせるわけもなく、決してコンプリートすることはありません。
このように、環境や人で欲求をコンプリートしようとすると、いつまで経っても満たされることはありません。これは非常に贅沢なストレスと言えますが、実は恵まれた環境や人間関係を持っている人に限って、欲求のコンプリートに振り回されます。
最後に、みなさんの幼き時代を思い出してほしいのですが、目の前のオモチャに夢中になって遊んでいる子と、人が持っているオモチャばかりが気になってキョロキョロしている子がいませんでしたか。それは、大人になっても同じことのように思えます。
隣の芝はいつだって青いです。自分の芝だって隣りから見れば、やっぱり青いのです。
運も実力?!
よく運とかツキなんて言いますが、目に見えないその不確かなものの正体って、いったい何なのでしょう。そして、「運も実力のうち」なんて言ったりしますが、本当に実力なのでしょうか。
元プロ野球選手に、野茂英雄くんっていますよね。(なぜ「くん」なのかは後程)言わずと知れた、日本人プレイヤーがメジャーで通用することを証明した、球界を代表するピッチャーでした。メジャー移籍のパイオニアと言ってもいいでしょう。彼はもともと物静かな性格で、口数もかなり少ないのですが、あるインタビューで、
「野茂さん、運も実力のうちですよね!」って言われた時に、猛反発したらしいのです。「運は運です!実力ではありません!」と。きっと私が想像するに、「そんな不確かなものに期待しながら、勝負の世界に身を置いているわけではない!」という思いがあったのではないでしょうか。
運とかツキって、タイミングとも似ているような気がします。目に見えるものではなく、自分の意識ではコントロールできない偶然的要素が強いです。たぶん、波みたいなものがあって、きっと誰にでもやってくるものだと思いますが、意識でコントロール出来ない限り、実力と呼ぶのは確かに違うような気がします。
しかし、実力ではないにしても、やたらと運の強い人っていませんか?!それについて昔考えたことがあるのですが、それはきっと運が強いのではなく、運が強いように周りから見えてるだけではないかと思っています。いつも明るくポジティブな人は、どんな状況でも前向きな受け入れ態勢が出来ていると思うのです。だから結局、最後は結果的によい方向にいってしまうから、運がいいように見えてしまうのではないかと。
要するに、同じ状況でも「ツイてるな~」と思えばツイてるし、「ツイてないな~」と思えばツイてないことになってしまう、そんな単純な原理のような気がします。
運は実力ではないけれど、運がいいと思える力は実力かもしれませんね!
最後に余談ですが、野茂英雄くんと私は、同じ年の同じ日に長野と大阪で生まれました。だから、偉大な方ということは重々承知の上で親しみを込めて、野茂英雄くんなのです。
曖昧な数字
もし、こんなチラシを見たらどのように思いますか?
骨折を経験した小学生のうち2人に1人が牛乳を飲んでいませんでした!だから牛乳を飲んで骨を強くしよう!
いかにもありそうなフレーズですが、これを読んだあなたはどのように思いますか?「骨折しないためにも牛乳を飲んだほうがいいな」って思う人がほとんどだと思います。でも、これだけのフレーズでは何の根拠にもならないということをお話ししますね。
まず上のフレーズには、一番大事な「全体で何割の子が牛乳を飲んでいる」という分母の情報がないのです。どういうことかと言うと、もし全体で5割の子が牛乳を飲んでいたとしたら、2人に1人が牛乳を飲んでいなかったことになり、骨折を経験した小学生のうち2人に1人が牛乳を飲んでいないのは当たり前で、牛乳の効果は「なし」ということになってしまうのです。
次に、全体で3割の子が牛乳を飲んでいたとしたらどうでしょう?10人中3人しか牛乳を飲んでいないにもかかわらず、骨折経験者の2人に1人が牛乳を飲んでいたということは、「牛乳を飲むと骨折しやすい!」という根拠になってしまうのです。
最後に、全体で8割の子が牛乳を飲んでいたとすると、ここで初めて「牛乳を飲んだほうが骨折しにくい!」という根拠につながるのです。
このような、分母が明確でない割合って、気にしてみると結構あちこちにあるのです。ついでなのでその他のパターンもみてみましょう。
レモン○○個分のビタミンC
↑そもそもレモンはビタミンCがそんなに入っていませんから!
レタス○○個分の食物繊維
↑そもそもレタスは食物繊維が豊富な野菜ではありませんから!
5秒に1個売れている
↑いつからいつの時間の話しをしてるのですか?!
離職率0%の働きやすい職場
↑どれだけの期間を使って計算した数字なの?
ほかにも挙げたらきりがないですが、キッチリした数字と絶妙な文字の組み合わせだからこそ、信じやすくなっているのかもしれません。今回挙げたものは「気を付けましょう」というだけで、違法表示ではありませんが、おそらく違法表示の方が遥かに多いはずですから、お互い気を付けたいものですね。
祈り
豊かな暮らしがしたいと富を求めたのに・・・
賢明であるようにと貧困を授かった。
名声が欲しいと成功を求めたのに・・・
謙虚さを忘れてはいけないと失敗を授かった。
壁を乗り越えるための力を求めたのに・・・
努力することを忘れてしまうと弱さを授かった。
風邪ひとつひかない健康な身体を求めたのに・・・
人の痛みがわかるようにと病を授かった。
信頼できる友だけを求めたのに・・・
本当の友を見抜く目を持ちなさいと裏切りを授かった。
理想の相手との永遠の愛を求めたのに・・・
求めるだけで与えることをしていなかったと失恋を授かった。
死ぬのが怖いと永遠の命を求めたのに・・・
限りある中でこそ生きる意味があると寿命を授かった。
結局わたしが神に求めたものは、
何ひとつ与えられることはなかった・・・
しかし、祈りはすべて聞き入れられたかのように、
私はいま・・・
最高に幸せな人生を歩んでいる。
これは「グリフィンの祈り」という作者不詳の作品をアレンジしたものです。何か感じてくれれば嬉しいです。
魔法の呪文「わかほそ」
魔法の呪文は正直あまり教えたくなのですが、ここの記事へ辿り着いたプレゼントに教えてしまいます。(笑)
冗談っぽく言っていますが、これ本当にスゴイのです。絶対と言い切っていいほど、全てが良い方向へ向かいます。ひとつだけ難点は、呪文なのに唱えるだけでは何の効果もなく、確実に実践しなければなりません。でも、全てが良い方向へ向かうのなら、実践することなんて難しいことではないですよね。「わかほそ」とは、
わ(笑う)
か(感謝)
ほ(褒める)
そ(掃除)
の4つの頭文字です。どれも魔法感はまったくない普通によく聞く言葉ばかりなのですが、この4つを毎日実践するのは結構難しいです。自分の周りにいる人たちを思い出してください。この4つの呪文を、毎日使いこなしていそうな人は何人いるでしょうか。そして、もし居たとすれば「全てが良い方向へ向かう」とさっき言った言葉が、嘘ではないことが分かっていただけると思います。
魔法感がまったくない4つの事が魔法になるということは、当たり前の事を当たり前にすることがいかに難しいかということです。そして、難しいからこそそれを実践する価値があるのです。もし、何かうまくいかないことがあった時は、この魔法の呪文を思い出してください。きっと何かが欠けていますので、それがそのまま解決のためのヒントになるはずですから。
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